小樽バプテスト教会
2015年3月16日 宣教
「主イエスが望まれた道」
聖書:ヨハネ12章20節~26節
~イエス栄光をお受けになる時が近づく~
神様はすべての人を愛し、すべての人に永遠の命を与えたい。これが神の心からの願い出ある。その永遠の命を得るために大切な一つの生き方を心得また、それを実行することの大切さを説かれたのである。ヨハネ12章25節「自分の命を愛する者はそれを失うがこの世では自分の命を憎むものはそれを保って永遠の命に至る」と語られています。ここにイエス様は2つの生き方を示しております。一つは「自分の命を愛する者」もう一つは「自分の命を憎むもの」である。「自分の命を愛する者はそれを失う」「自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る」この言葉に触れて私たちは逆ではないかと誰しも思う。「自分の命を愛する者が命を得」「自分の命を憎む者がそれを失う」そのように語られるなら判るがイエスの言葉は明らかに違う。これを多くの人は「驚くべき逆説」と説く。イエス様にお従いした12弟子の一人ペテロの人生からイエス様の言葉の理解を深めてみましょう.
マルコ14章66節~72節を読みますとペテロがイエスを裏切った出来事が書かれています。ペテロはイエス様からいつも愛され注目されていた一人のでしでした。ペテロも心からイエス様からお従いすることを喜びとしていました。しかし、人は大切なところでどのように生きるかその人の本音が出てしましたすペテロの場合もその失敗をしてしまいます。イエス様がゲッセマネの祈りの後、真夜中に捕えられ祭司長や律法学者の指示のもと大祭司の裁きの庭に連れて入り、裁きの様子を見つめていた時近くにいた人があなたもあの方(イエス様)と一緒にいた人でしょうと言われた。その時即座に否定したペテロはイエスの弟子であることを知られたくなかった。声をかけられた時、イエス様とともに生きその仲間と思われ同時に扱われることを恐れたのである。ペテロはこの時庭にいた人から三度声をかけられた。三度もイエス様の弟子であることを否定したのである。三度めには呪いの言葉すら吐き、強く否定したのである。ペテロは三度もイエス様を裏切り、イエス様とともにいた関係を否定したのである。ペテロは危険を感じ生きるために自分の命をもっとも大切に考え、自分の命の安全に心を動かされたのである。まさに「ジブの命を愛する」事に心奪われイエス様との愛の関係を、そのままでは失うことになってします処に陥ってしまったのである。しかしイエス様は復活の後、イエス様はペテロに対して三度「私を愛するか」と問われ、その言葉に対してペテロは全てに優って誰よりも「あなたを愛します」と答えたのである。この信仰こそペテロにおいては「自分の命を憎む」事になった。即ち永遠のいのちに至る道を選び生きた姿でありました。イエス様の12人の弟子の一人であったイスカリオテのユダの場合は「自分の命を愛する」気持ちが強かったため、最後には滅びに至ってしまったのです。ユダはイエス様の弟子として選ばれた存在でしたが最後まで自分の主張自分の生き方を固辞し「自分の命を愛する」行動に終始した。イエス様の思いよりも自分の考えを優先し「自分の命を憎む」事は出来なかった。そのためユダは最後にイエス様を裏切り自分の命を自ら絶ち、神が与えて下さる永遠の命とはほど遠い世界に落ちでしまった。ペテロとユダの行動を見てみますと、ペテロの裏切りはとっさであり、衝動的であった。思わず自分の命を愛する行動に走ったと言える。一方ユダの裏切りは計画的でありイエス様の思いより自分の思いを優先し、自分の命を愛する行動が生まれた裏切りであった。その時、神の憐れみを求めるより、自らの命を絶つことに走ってしまった。救いの恵みにより、永遠の命に至ることは出来なかった。神のみ旨を第一とし、神の言葉に従うことが「自分の命を憎む」事であり、その反面、神の事を思わず、自分の思いや、自分の考えに固辞して、行動する事が「自分の命を愛する」生き方である。
イエス様がゲッセマネの園で祈りにおいて、その生き方を示されました。「父よあなたはなんでもおできになります。この杯を私から取りのけて下さい。しかし私の願う事ではなく、御心にかなう事が行われますように」と祈られました。イエス様は自分の命を神に委ね、苦き杯、十字架をお受けになりました。父なる神は、復活の恵み、復活の命に至る祝福を用意されていたのです。