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5月17日 宣教

 

本日は教会歴によりますとイエス様が昇天されて後の最初の主日礼拝です。先週14日が昇天された日とされています。今年はイースター復活祭が4月5日でしたからそれから弟子たちと40日間過ごされそして昇天されたのです。

来週24日が聖霊降臨祭(ペンテコステ)です。本日はパウロがエフェソ教会に送った手紙の中からともに学んでみたいと思います。

パウロは異邦人伝道のため特別な使命を与えられ異邦人伝道に励んでいました。異邦人が救われパウロと同じ恵みが与えられることを心から望んでいたのです。パウロは異邦人の救いによせる希望、信仰における望みを強く持っていました。そしてその祈りは本日の聖書の箇所エフェソの信徒への手紙3章14節から17節に書かれています。パウロは「私は御父の前にひざまずいて祈ります。」と語っています。当時の多くの人々は立って両手を天に向けて挙げ、祈っていましたと言われています。そのような姿勢ではなく「ひざまずいて祈ります」と語っているのは、パウロの祈りに対する熱意を伝えたい気持ちの表れとみることができます。

キリストの愛に根差した人生を生きるためには、キリストの愛を深く知ることが何より大切です。そこでパウロは18~19節において次の事を勧めています。「また、あなた方すべての聖なるものたちと共にキリストの愛の広さ・長さ・高さ、深さがどれだけあるか理解し、人に知識をはるかに越えるこの愛を知るようになり、ついには神の愛に満ち溢れる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」パウロは凄い要求をしています。私たち凡人にはキリストのあいの真実を極めることはできません。しかしイエス様が生きた生き様を追い求める時、キリストの生きた姿の中に愛のほとばしる生き方を見ます。ほんの一部でもあっても知りえたならばその一部を見つめ、その愛に従う所から始めるならば、主は私たちを少しずつ高めて下さるであろう。イエス様のご生涯において人々との交わりの中で示された言葉と行為を見ます。例えば重い皮膚病の方に近づき優しく手を置き、癒してあげる姿の中に一人一人の人生をこよなく大切に生きなさいと愛をもって接しておられる姿に心を打たれます。悪霊に取りつかれた自分の人生を見失い墓場で叫び狂う男の人生を見つめ、癒し新たな生き方できるよう導かれたそのイエス様の愛に触れる時、人を偏見で見るのではなく愛の眼で見る時、そこに一人一人を愛する神の愛を見出します。

何よりもイエス様の愛は十字架にあらわされております。すべての人の罪を許し、全ての人を救いの道を十字架の愛は示されたのです。

十字架の苦しもの中で「父よお許しください。自分が何をしているのか知らないのです。」神の愛は、このイエス様の言葉にあるように全ての罪を赦すところにあります。しかも条件をつける事無く、無条件にすべての罪を赦して下さるのです。このようなすべてを赦す心は私たちのはもてません少しの嫌がらせで感情をどうすることもできなくなる弱い人間、そのことを百も承知でパウロはキリストの愛を知り、キリストの愛に生きなさいと勧めています。キリスト愛に生きることを心がけるならば「ついには神の満ち溢れる豊かさに与ることが出来ます。」と教えています。キリストの十字架の愛に応える人生を共に祈りつつ、信仰の目標において生きてまいりましょう。

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